- 2011/4/21
- 文: 松元祐太
- 記事No: 00008
東日本大震災訪問記 第0話後編
【0話前編のおさらい】
・地震発生。その時私(たち)は…
・数日後。首都圏では…
・何かをしたい、そこで私たちはメッセージを届けることに。
しかし、そこにはいくつものハードルがたちはだかった。
【行きたい思いとの葛藤、そして不安】
悲惨な被災地の状況が毎日のようにテレビで報道されています。悲痛な叫び声が画面の奥から伝わってきます。このような現実を目の当たりにし、私はもどかしさを強く感じていました。4年前の新潟県中越沖地震の時のことです。あの時の苦い思い出がよみがえりました。
ボランティアは、当分は迷惑である、現地の受け入れ態勢が整ってから行くべきだ。
4年前はこの言葉がまとわりついて消えず、重くのしかかりました。そして結局、現地へは入りませんでした。
今度こそは現地に入りたい。そのためにはまず、この「課題」を乗り越えなければいけませんでした。
今回もまだ地震が起きてから日は浅く、到底現地の受け入れが整っているとも思えませんでした。実際にインターネットでボランティアの募集を探したのですが、なかなかみつけることはできませんでした。
何を考えたか、それは発想を逆転させることでした。
迷惑になってしまう、のではなく、迷惑になるようなことをしなければいい。準備と覚悟があれば迷惑はかけずにいける。
通常、迷惑になるとされているのは現地で被災者の方が必要とする貴重な物資を、ボランティアをしにやって来た人が使うこと、と言われています。具体的にはボランティアできた人が、極わずかの燃料を使って暖をとる。限られた食料を食べてしまう。こうした行動は人間であれば仕方がないことのようにも思えますが、被災者の方々の立場から見ると迷惑といわざるをえないのです。
そこで、それならば食料、暖をとる道具、全てにおいて迷惑をかけなければよいと考えました。つまり食料、暖をとるものは持参する、当分、着替えはない、トイレもどうなるかわからない、風呂なんてもってのほか、寝床は野宿。そう自らに言い聞かせ、そのハードルを乗り越えました。
次の課題は不安を乗り越えることです。それは力になれるか、などという漠然としたものではなく、具体的で非常に生々しいものでした。追体験をしやすくするため、ここではあえて実際感じたことに忠実に書いていきます。
今回はNPOの独自の情報網がありました。そしてノウハウもありました。情報によると現地での人手が圧倒的に不足しているとのこと。それならばますます行かなければ、と思いました。
ところが何のための人手が不足しているかというと…
遺体の収容が進まない…。このままでは腐乱が進行していく。
正直、不安でした。その時思ったことを、正直に恥を承知の上書きます。もしかしたら、その程度のことに不安を感じるものが行くべきではなかったと叱咤されるかもしれません。それでもやはり数々の遺体を目の当たりにして冷静に、そして積極的に活動に参加できるかといわれたら、やはりできるか不安です。さらに現地入りした記者の方々が、現在何人もPTSDになっています。このことは凄惨な被災地に入ることに並々ならぬ決意が必要だということを物語っています。
ひとまず医学部の友人に相談しました。素人にも遺体収容はできるものかと。答えはそれなりの覚悟が必要、ということでした。今回は多くの方が水死されています。水死された遺体を扱うのにはそれなりの覚悟がいるということでした。
正直、こんな不安を抱えた者が行くべきか、葛藤はありました。しかし、遺体収容でも力になれるのならば行きたい。それが私の下した決断、決意でした。
【でも、どうやって東北に行くの?】
そしてこれが今回の最大の課題でした。思いを募らせたのはよいものの、東北へ入るための交通手段を確保しなければならないということです。もちろん電車、車は使えません。電車に関しても東北方面は全て運休状態。車もガソリンがないため使えません。飛行機も考えましたが、空港からの足が不明確でした。今回即座に現地入りしたNPOは独自のルートで足を確保するケースが多く、ガソリン不足の中、サラダ油で動く車を確保したところもあったそうです。
そんな中、3月19日にとあるニュースを目にしました。
県北バス、東京便を再開。しかし1か月先まで予約でいっぱい
そのニュースは東京と岩手県宮古市を結ぶ夜行バスが再開したということを告げるものでしたが、同時にチケットの入手は困難であるということも示していました。
ところが、なぜでしょうか、バス会社に電話をかけてみたくなりました。電話をしたところで満席であることを告げられるのは明らかでした。であるにもかかわらず、当時の私は電話をかけずにはいられなかったのです。本当になぜだったかいまだにわかりません。受話器の向こうからは女性の声が聞こえてきました。
―はい、京急バスです
―あの、宮古行きのバスが再開したと聞いたんですけど、ここであってますか?
―はい、そうです
―チケットをとりたいんですけど、いつまで席あいてないですか?
―えー、あ、さっきキャンセルがでまして、21日なら一席あいています
―えっ?あ、ちょっと待ってもらえますか?
(仲山に相談。なにを話したかは正直、驚きのあまり覚えていない)
―じゃあその21日の便、予約お願いします…!
―かしこまりました
私は選ばれた。畏れ多いですが、そう考えるべき瞬間でした。メッセージを配りに行きなさい、大げさでもなく、そう考えるべき瞬間でした。
と、同時に責任感がひしひしとこみ上げてきました。というのも現地に行ける人は限られているからです。つまり他にも行きたい人は大勢いる。だから私は行けない人たちに恥じない活動をしなければならない、と。
こうしてたった一つの席を確保し、被災地入りは現実のものとなりました。
【行くまでにしなければならないこと】
一つ目は「地図」の入手です。
被災地に思いを届けにいけることがほぼ確実となり、具体的な準備にとりかかりました。
19日からバスが再開していたので、チケットを取りにバスの発着場に行くとすでに今晩の便で宮古入りする方々がいらっしゃいました。そこで一人の方とお話ししました。
「着いたらまず、高台がどこにあるか確認して」
ぞっとしました。まだまだ余震活動は活発です。そしてなによりも、あの壊滅的な被害をもたらした津波が迫ってくるところに行こうとしている、そう強く意識させられました。
現地で地図が手に入るともわかりません。そのためこの言葉を頂いたのち、ただちに現地の地図を探しました。
二つ目は物資の購入です。前編でも書いたとおり、この度首都圏でも避難に必要な物資はどこへ行っても売り切れ状態でした。カイロ、食料(缶詰)、携帯の充電器、電池…これら全てを十分な量そろえるのは思った以上に困難でした。とりわけ電池を買う時のエピソードは今後起きうる大地震へ、一つの教訓として残ってほしいものです。これは第3話にてお話ししましょう。
【いざ、現地へ】
色々な困難を乗り越え、充分に準備をし、いよいよ岩手に入る日となりました。
以下第1話からは現地入りしてからの報告を下地として、今回の地震を多角的に見ていくことをします。第1話は、君の為になにができるだろう。漠然とした「なにか」ではなく、特定の「あれ」をする。そのために是非ともみなさん一緒に考えていきましょう。
つづく。
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