- 2011/5/14
- 文: 松元祐太
- 記事No: 00010
東日本大震災訪問記 第2話【涙の理由】
【涙の理由】
悲しみ、感動、悲惨、虚無感。私は今回の訪問で4回涙を流しました。第2話ではその涙のワケを通して現地の状況を振り返ります。
【1つ目の涙――凄惨、悲しみ】
3月22日、岩手県宮古市に到着しました。駅前は津波の被害からは免れ、至極穏やかな様子でした。駅前だけに限らず、数十分歩いても軒並み平穏で、信号もついていることから電気も復旧しているのだということがわかります。
しかし海に近付くにつれ様子は一変してきます。無残な姿の車やねじ曲がったレールがそこかしこに横たわっていました。
私が最初に応援メッセージを配布した避難所は愛宕小学校で、海岸付近の高台にありました。
そこで、とある被災者の方がおっしゃっていたことが鮮明に記憶に残っています。
―ここはまだましだよ。山田とか宮城とか南に行くともっとひどいよ―
写真の通り、宮古市は壊滅的な状況になり果てています。
これが宮古市を襲った津波です。
宮古市では362人の方が亡くなり、3月31日になっても1301名が行方不明となっていました。全壊した家屋は3669戸、加えて、これらは調査継続中になっており未だに全容が把握できていないのが現状です。それだけの被害がでているにも関わらず、他の地区の被害に比べればまし、ということです。この時、ぞっとしたことを覚えています。
宮古市内のいくつかの避難所をまわった後、この言葉が脳裏に焼きついたまま私は宮古から南へ20km、山田町へ入りました。
山田町、そこで私は一つ目の涙を流しました。
積み重なるがれきの山。それはつい数日前まで家の一部として人々の暮らしを支えていたものです。窓ガラスは全て割れ、逆さになっている自動車。いつもは人々の生活を支えているものがあっけなく崩されている。その光景に胸が張り裂けそうでした。
さらに、歩いていると目に付くのが赤い丸印。それは何か。その印が意味するのは人の「死」です。ここで人の命がついえた。その現実、衝撃がリアルに私に迫ってきます。
あたりに漂うなんともいえない「におい」も忘れられません。今でも思います。あのにおいはいったいなんだったのか。ただの潮の香りだったのか―。
テレビの画面からでは伝わらないこのインパクト。そしてにおい。現地に入ることではじめて全身で感じとりました。恐怖感、虚無感、絶望感、そうしたマイナスの感情が一気に私を襲います。
私はいたたまれませんでした。そして私は涙することで、その感情を無理矢理自分の外に追いやりました。
【二つ目の涙――悲しみ、共感】
3月25日。大槌町から歩いて釜石市に入りました。途中、片岸町、鵜住居と立ち寄り、根こそぎ流された家々を目にしました。
高速道を歩いていたときに、ちょうど車で通りかかった方に声をかけていただきました。
「釜石まで行くなら乗っていきな」と。何度も断りを申し出たのですが、「いいから乗っていきな」と何度も強く言っていただいたので申し訳なく思いながらも釜石まで10数分の距離を乗せていただきました。
その方は釜石市民体育館に避難されているということでした。そこまで乗せていただき、そちらでも、もってきた物資と応援メッセージをお渡ししてまいりました。
体育館に着いて、体育館の廊下を歩いていました。その時です。二人の、肩を寄せている母娘の姿が遠くにありました。最初はその様子がよくわかりませんでした。
除々に近づくにつれなんとなく様子がわかってきました。お母さんはなにやら遠くを見つめています。
私はハッとしました。娘さんは下を向いて「うぅっ」と嗚咽を漏らしています。それは残念ながら再会の喜ぶものではありませんでした。大切な人の死を悼む悲しみの涙。
すれ違いざまの一瞬でしたが、
―知った情報を信じることができない。頼むから夢であってくれ―
察するに、そんな彼女らの言葉や悲痛さが伝わってきました。
・・・しかし、そんな彼女らに私は何もすることができない。
みなさんもテレビで数多くそのような光景を目にされたと思います。しかし現実には「何万」という途方もない数の分だけ悲しみがあるのです。
私が直接目にしたのはほんのお二人です。ですがお二人の涙を直接目の前にして、そこからでも言い知れぬ深く、強い悲しみがひしひしとこみ上げてきました。
私は、何万という途方もない涙をそこから広げて想像してみました。私は再び涙をこらえることはできませんでした。
【3つ目の涙――感動】
しかし今回は、悲しみに耽るだけの訪問ではありませんでした。同時に何度も琴線に触れる出来事に遭遇しました。その中でも最も印象的だったのは被災者の方の心遣いです。第1話で「ありがとう」について書きました。どこに行ってもありがとう、と言っていただけました。
―助けてくれてありがとう―
2つ目の涙で紹介した、トラックに乗せて下さった方もそうでしたが(自宅が流され、がれきになった家で探し物をしてから避難所に帰る途中でした)、被災者の方は多くを失い、現在も極めて過酷な生活を送っている。寒さに身を震わせ、いつになったらこの生活から解放されるのだろうか…。
私自身も何度か外で寝床に入りましたが、あまりの寒さに全く眠れず、心が折れそうになりました。あの寒さを何日も…。しかもそれがいつまで続くかもわからないと思うと胸が痛みます。被災者の方の不安は想像を絶するものです。
それにもかかわらず、被災者の方々は「私たちを支援してくれてありがとう」「こんな遠くまで来てくれてありがとう」と言ってくださる。続々と届く物資に対し、「やっと来たか」「なんでこんなに物資がこないんだ」など利己的な声や様子はいっさいありません。
先日の東北新幹線が再開した日。新幹線の乗客に向かって沿線から手を振ろうという企画がツイッターによる呼びかけで行われました。それは東京から来る人に「これまで応援してくれてありがとう」と伝えるためです。
そんな現地の方の気配りに胸がつまります。そんな心配りに幾度も触れ、思わず目頭が熱くなりました。
【4つ目の涙―複雑な思い、虚しさ】
最後の涙は次の記事、第三話への橋渡しです。
現地へ入る前日のことでした。応援メッセージは持っていくものの、当初はやはり物資が必要なのではないかと考えていました。そのため「なるべく多くの物資を」と、調達に奔走していました。その中で近くのPCショップに電池を買いに行った時のことです。
左:PCショップ 右:家電量販店
私が住んでいるエリアでは大手家電量販店をはじめ、どこに行っても乾電池は売り切れ状態でした。これは関東地方の多くの場所で同じ状態だったのではないでしょうか。しかしPCショップという正直、メジャーとは言えない場所ならばもしやと思いそこに足を運ぶと、十分満足な量がまだ売れずに残っていました。
私は1パック20本入りの電池パックを3パック買って被災地に持っていこうとしました。もちろん他の組織が持っていくのに比べれば十分な量とはいえません。ですが第0話後編で紹介したように個人では持っていくものは限られていますので、止むを得ず3パックにとどめておこうということでした。
3パック持ってレジへいきました。すると、
―お客様一人1パックまででございます―
ハッとしましたが気を取り直して、「東北に持っていくんですけど」と伝えました。ところが「申し訳ございませんが、おひとり様一つまでですので…」とのこと。
私は一パックだけ買い、その場をあとにしました。
もちろんその店員さんには鼻であしらわれたわけではなく、きれいな言葉で丁寧な接客を受けました。それだけに店員さんの言葉にやるせない思いがこみ上げ、涙しました。
このことの背景には複雑な事情があります。これをどう捉えるべきか。融通の利かない店員が問題というのはどうも十分ではありません。「一人一パック」のそもそもの原因は買い占めです。
この電池を買えなかった、ということを出発点に次の第三話へと筆を進めてまいりたいと思います。第3話では、関東で問題になった買い占めについて考えていきましょう。
つづく。
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悲しみ、感動、悲惨、虚無感。私は今回の訪問で4回涙を流しました。第2話ではその涙のワケを通して現地の状況を振り返ります。
【1つ目の涙――凄惨、悲しみ】
3月22日、岩手県宮古市に到着しました。駅前は津波の被害からは免れ、至極穏やかな様子でした。駅前だけに限らず、数十分歩いても軒並み平穏で、信号もついていることから電気も復旧しているのだということがわかります。
しかし海に近付くにつれ様子は一変してきます。無残な姿の車やねじ曲がったレールがそこかしこに横たわっていました。
私が最初に応援メッセージを配布した避難所は愛宕小学校で、海岸付近の高台にありました。
そこで、とある被災者の方がおっしゃっていたことが鮮明に記憶に残っています。
―ここはまだましだよ。山田とか宮城とか南に行くともっとひどいよ―
写真の通り、宮古市は壊滅的な状況になり果てています。
これが宮古市を襲った津波です。
宮古市では362人の方が亡くなり、3月31日になっても1301名が行方不明となっていました。全壊した家屋は3669戸、加えて、これらは調査継続中になっており未だに全容が把握できていないのが現状です。それだけの被害がでているにも関わらず、他の地区の被害に比べればまし、ということです。この時、ぞっとしたことを覚えています。
宮古市内のいくつかの避難所をまわった後、この言葉が脳裏に焼きついたまま私は宮古から南へ20km、山田町へ入りました。
山田町、そこで私は一つ目の涙を流しました。
積み重なるがれきの山。それはつい数日前まで家の一部として人々の暮らしを支えていたものです。窓ガラスは全て割れ、逆さになっている自動車。いつもは人々の生活を支えているものがあっけなく崩されている。その光景に胸が張り裂けそうでした。
さらに、歩いていると目に付くのが赤い丸印。それは何か。その印が意味するのは人の「死」です。ここで人の命がついえた。その現実、衝撃がリアルに私に迫ってきます。
あたりに漂うなんともいえない「におい」も忘れられません。今でも思います。あのにおいはいったいなんだったのか。ただの潮の香りだったのか―。
テレビの画面からでは伝わらないこのインパクト。そしてにおい。現地に入ることではじめて全身で感じとりました。恐怖感、虚無感、絶望感、そうしたマイナスの感情が一気に私を襲います。
私はいたたまれませんでした。そして私は涙することで、その感情を無理矢理自分の外に追いやりました。
【二つ目の涙――悲しみ、共感】
3月25日。大槌町から歩いて釜石市に入りました。途中、片岸町、鵜住居と立ち寄り、根こそぎ流された家々を目にしました。
高速道を歩いていたときに、ちょうど車で通りかかった方に声をかけていただきました。
「釜石まで行くなら乗っていきな」と。何度も断りを申し出たのですが、「いいから乗っていきな」と何度も強く言っていただいたので申し訳なく思いながらも釜石まで10数分の距離を乗せていただきました。
その方は釜石市民体育館に避難されているということでした。そこまで乗せていただき、そちらでも、もってきた物資と応援メッセージをお渡ししてまいりました。
体育館に着いて、体育館の廊下を歩いていました。その時です。二人の、肩を寄せている母娘の姿が遠くにありました。最初はその様子がよくわかりませんでした。
除々に近づくにつれなんとなく様子がわかってきました。お母さんはなにやら遠くを見つめています。
私はハッとしました。娘さんは下を向いて「うぅっ」と嗚咽を漏らしています。それは残念ながら再会の喜ぶものではありませんでした。大切な人の死を悼む悲しみの涙。
すれ違いざまの一瞬でしたが、
―知った情報を信じることができない。頼むから夢であってくれ―
察するに、そんな彼女らの言葉や悲痛さが伝わってきました。
・・・しかし、そんな彼女らに私は何もすることができない。
みなさんもテレビで数多くそのような光景を目にされたと思います。しかし現実には「何万」という途方もない数の分だけ悲しみがあるのです。
私が直接目にしたのはほんのお二人です。ですがお二人の涙を直接目の前にして、そこからでも言い知れぬ深く、強い悲しみがひしひしとこみ上げてきました。
私は、何万という途方もない涙をそこから広げて想像してみました。私は再び涙をこらえることはできませんでした。
【3つ目の涙――感動】
しかし今回は、悲しみに耽るだけの訪問ではありませんでした。同時に何度も琴線に触れる出来事に遭遇しました。その中でも最も印象的だったのは被災者の方の心遣いです。第1話で「ありがとう」について書きました。どこに行ってもありがとう、と言っていただけました。
―助けてくれてありがとう―
2つ目の涙で紹介した、トラックに乗せて下さった方もそうでしたが(自宅が流され、がれきになった家で探し物をしてから避難所に帰る途中でした)、被災者の方は多くを失い、現在も極めて過酷な生活を送っている。寒さに身を震わせ、いつになったらこの生活から解放されるのだろうか…。
私自身も何度か外で寝床に入りましたが、あまりの寒さに全く眠れず、心が折れそうになりました。あの寒さを何日も…。しかもそれがいつまで続くかもわからないと思うと胸が痛みます。被災者の方の不安は想像を絶するものです。
それにもかかわらず、被災者の方々は「私たちを支援してくれてありがとう」「こんな遠くまで来てくれてありがとう」と言ってくださる。続々と届く物資に対し、「やっと来たか」「なんでこんなに物資がこないんだ」など利己的な声や様子はいっさいありません。
先日の東北新幹線が再開した日。新幹線の乗客に向かって沿線から手を振ろうという企画がツイッターによる呼びかけで行われました。それは東京から来る人に「これまで応援してくれてありがとう」と伝えるためです。
そんな現地の方の気配りに胸がつまります。そんな心配りに幾度も触れ、思わず目頭が熱くなりました。
【4つ目の涙―複雑な思い、虚しさ】
最後の涙は次の記事、第三話への橋渡しです。
現地へ入る前日のことでした。応援メッセージは持っていくものの、当初はやはり物資が必要なのではないかと考えていました。そのため「なるべく多くの物資を」と、調達に奔走していました。その中で近くのPCショップに電池を買いに行った時のことです。
左:PCショップ 右:家電量販店
私が住んでいるエリアでは大手家電量販店をはじめ、どこに行っても乾電池は売り切れ状態でした。これは関東地方の多くの場所で同じ状態だったのではないでしょうか。しかしPCショップという正直、メジャーとは言えない場所ならばもしやと思いそこに足を運ぶと、十分満足な量がまだ売れずに残っていました。
私は1パック20本入りの電池パックを3パック買って被災地に持っていこうとしました。もちろん他の組織が持っていくのに比べれば十分な量とはいえません。ですが第0話後編で紹介したように個人では持っていくものは限られていますので、止むを得ず3パックにとどめておこうということでした。
3パック持ってレジへいきました。すると、
―お客様一人1パックまででございます―
ハッとしましたが気を取り直して、「東北に持っていくんですけど」と伝えました。ところが「申し訳ございませんが、おひとり様一つまでですので…」とのこと。
私は一パックだけ買い、その場をあとにしました。
もちろんその店員さんには鼻であしらわれたわけではなく、きれいな言葉で丁寧な接客を受けました。それだけに店員さんの言葉にやるせない思いがこみ上げ、涙しました。
このことの背景には複雑な事情があります。これをどう捉えるべきか。融通の利かない店員が問題というのはどうも十分ではありません。「一人一パック」のそもそもの原因は買い占めです。
この電池を買えなかった、ということを出発点に次の第三話へと筆を進めてまいりたいと思います。第3話では、関東で問題になった買い占めについて考えていきましょう。
つづく。
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