- 2011/5/26
- 文: 松元祐太
- 記事No: 00011
東日本大震災訪問記 第3話【買い占めはヤメよう??】
【光のない生活】
第2話の最後で現地へ持っていく物資集めの時にあった困惑について書きました。(まだ読まれていない方はコチラから!)
普段の生活ではあまり意識に上らない電池ですが、災害時には重要な電源となります。例えば懐中電灯がそうです。今回の地震では多くの場所が停電になりました。
普段都会に住む人たちは、街灯のおかげで夜でも明るい道に慣れてしまっています。しかし災害時、停電によってこのような真っ暗な道路では、大通りでも車からは歩行者が見えづらく危険です。地震によって地割れが起きていたりしているため、歩行者もまっすぐ歩くことすら困難な状況でした。
室内でも同じです。今回は計画停電などもあったので、一筋の光もない闇がいかに恐ろしいものなのかというのが、電力の恩恵に浴している都会生活者には感じられたと思います。
【被災地の明かり】
さて東京でも身を持って感じた明かりのありがたみ。ではこの暗闇は被災地においてはどのような意味をもつのでしょうか。
なによりもまず夜の外出ができなくなります。唯一あたりを照らしているのは月明かりのみ。特に新月の夜を迎えると本当に何も見えません。加えて、震災直後には舗装された道がなくなっています。がれきが辺りを埋め尽くし、移動するにもがれきの山を乗り越えて行かなければなりません。子どもがいない、親がいない。一刻も早く助けに行きたい。そんな状況であったとしても明かりがなくては外には行けません。
建物の中にいても光は大切です。ちょっとトイレに行くにしても足元が見えないために行くのがおっくうになる。そしてなるべく夜にトイレに行かないようにするために水分摂取を控える。その結果、脱水症状になってしまう。
現実にこのようなことがきっかけで体調を壊した方がいらっしゃったかは定かではありませんが、少し想像力を働かせれば電池、光がないことによるリスクは容易に想像できます。
もちろん、電池は明かりだけではなく情報を得るためのラジオ、知人と連絡をとるための携帯電話などの電源ともなります。
【電池、そして希望を持っていこう】
いずれにせよ、電池はきっと重要な支援物資になるだろうと考え電池を持てるだけ持っていこうと決意しました。
ところが、
―お客様一人1パックまででございます―
私はしばらく呆然と立ち尽くしていました。
「買占めはやめよう」というメッセージ
このメッセージを、みなさんはCMなどを通して幾度となく耳にしたと思います。また被災地では避難所を回るボランティアの人に対し、一人2個までというルールを破って何個でも買わせてくれたお店もあったとのことです。
そのような話を私は知っていたので、真っ先に思ったこととしては「なぜみんな買い占めるのだろう。そのせいで被災地に持っていくことができなくなってしまった。光という、大事な支援ができなくなってしまった。」という悔しさであり、歯がゆさでした。
それから幾日か過ぎました。被災地からも帰ってきてきました。そしてこの出来事も次第に記憶から消え去っていきました。
【首都圏から次々とモノがなくなった―買占めと恐怖】
東北から帰宅して数日後のことです。未だ余震が続いており、次はいつ大きい地震がくるかわからない、そんな中、友人と話をしていました。そこで友人は「怖い」と小さくつぶやきました。
買占めは本能的な恐怖に原因があるのではないか。このとき、ふとこんなことが頭をよぎりました。つまり、またくるかもしれない巨大地震に怯える中、なんとか明かりだけでも確保したい。だから電池を買えるだけ買っていく。私は被災地での暗闇がいかに怖いか、そんなことも考えていたのですぐに察することが出来ました。
――私たちが買い占めるのは恐怖という本能から――
さらには、生きていくのに必要不可欠な水や米、パンといった食料品、移動するのに必要なガソリンなどもあっという間に周りからなくなっていきました。それでもわずかな在庫を求めて多くの人々が列をなし、ますます恐怖が増していきます。
電池がないまま、再び地震がきて停電したら真っ暗な中生活しなければならない。必要な食料が手に入らなくなるんじゃないか。被災地の様子を考えれば、今のうちに必要な物資を備えておかなければ・・・
買い占めはいけないことなのでしょうか?もちろん中にはパンを何十個も買っていったおじいさんなどもいたそうで、必要以上に買いあさることには疑問もあります。しかし物資をとにかく身近に、自分のものとすれば恐怖は薄れる。これもまた事実です。
【買い占めってイケナイこと?】
「周りの人のことを考えて譲り合いましょう」そう言うのは簡単です。ではもし譲り合って電池を買わなかった時、付きまとう恐怖をどうしたらよいのでしょうか。
怖い、そういう心情を否定するのはあまり現実的だとは思えません。「怖がるな、被災地の人のことを考えろ」と、精神的に強い人はそのまま強く振る舞えばよいと思います。ですがそれを押し付けるのもどうなのか。少なくとも私は、友人が怖いと言っていて「怖がるな」、「買い占めるな」とは言えませんでしたし、言うつもりもありませんでした。それがその人の感覚だからです。私は物資が多少手に入らなくても怖くはありませんが、この私の感覚を誰かに強要したくはありません。
買い占めはイケナイことか、と尋ねられれば「イケナイこと」というのが模範解答でしょう。なぜなら、恐怖でパニックになった人が買い占めることによって、私は東北に限られた物資しか持って行くことは事実であったからです。ですから買い占めが起こらないように工夫する必要はあります。ですが、ただ単に買い占めはやめようというだけではなく、逼迫した恐怖というのも一緒に考えていく必要があるのではないでしょうか。
つづく。
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