- 2011/5/28
- 文: 松元祐太
- 記事No: 00012
東日本大震災訪問記 第4話【原発と迷宮のトビラ】
【3つの災い】
これまでは津波の被害が大きかった岩手の沿岸部、そしてそこに行くまで、実際に私が行った両方のエピソードを中心に訪問記を進めてきました。そしていよいよ訪問記も5つ目(第0話から始まっていますので!)。ここで少し岩手から離れたいと思います。岩手から帰ってきて、次の取材場所に選んだのは今も大きな問題を投げかけている福島です。第4話ではその報告と、そこで経験したこととそこから見える深い問題を中心に進めていきたいと思います。
3月11日以降、福島の沿岸部は3つの災害にあいました。一つ目は地震。二つ目は津波。そして三つ目はそう、福島第一原子力発電所の事故です。
―双葉町、富岡町、大熊町、南相馬市、いわき市
こういった町や市の名前は、普段ニュースを見られない方でも耳にされたかと思います。そして今回私は原発の半径30km前後の周辺まで行って参りました。
【放射線という見えない恐怖】
今回も、前回同様行くまでに小さなドラマがありました。そのなかでも一番記憶に残っているのは恐怖との戦いでした。
福島には行きたいという思いが岩手にいるころから強かったのですが、しかしそこには常に葛藤がつきまとっていました。というのも、行きたいという強い思いがあったものの「放射線の恐怖」によって一歩が踏み出せずにいたのです。
この放射線の怖さを表すこととしては、今回の事故をうけて、近隣の方が家を離れなければならないということがありました(この話につきましては下で詳しく扱います)。それだけでなく、数百キロ離れた東京でさえ、「今日の放射線量」という情報がでたり、放射能の数値が基準を超えたため水道水が供給停止になったりしました。それによって首都圏中のミネラルウォーターがなくなったのは記憶に新しいと思います。
【恐怖を乗り越えた!――それは出会いから】
最終的にはわずかな恐怖もなく、福島へ足を運ぶことになりました。そこにあったのは強い正義感のみ。ではいったいどのようにして恐怖を乗り越え、正義感を持って福島へと行くことができたのでしょうか。それをお伝えするためには、岩手は釜石にいた時のことを振り返らなければなりません。
第1話でお伝えしたように、私は3月に釜石に行きました。そこでは津波で家が流された方に車に乗せていただいたり、避難所では悲しみの光景を目にしたり、そして何度も「外は寒いから避難所に泊まっていきなさい」とおっしゃっていただいたりと何度も胸が一杯になる体験をしました。
ある日の夜でした。その日も当然避難所などで寝るわけにもいかず、なんとか寒さをしのげる場所を探していました。結局その日はスーパーの外にあったベンチで寝ることにしましたが、生憎と天気予報は雪。私はまた寒くて寝られない夜を覚悟していました。
すると二人の男性が近づいてきました。なにやら英語で話しかけてきます。話を聞くと韓国人の記者の方だそうで、地震が起きたために本来ならばリビアに派遣される予定だったのが、急きょ日本に取材にやってきたということでした。
その場でお話しを色々させてもらうと、どうやら戦場を中心に取材を行っているとのこと。アフガニスタンやイラク、そしてパレスティナにも何度も行ったとのこと。その方々がおっしゃっていた言葉が今でも印象に残っています。
「(アフガニスタンのような)そうした戦場よりも津波の方がひどい。なぜならば津波の後には何も残っていないから」
そしてその晩は彼らの車に泊めていただき、なんとか寒さをしのぐことができました。
この出会いが始まりでした。後日、Facebookでfriend(mixiのマイミクのようなもの)にさせてもらい、チャットをしていました。そしてこの時のことが私を福島へ向かわせたのです。その時のやりとりは以下のようなものでした。
―今週、福島に行く予定です。(松元、以下、M)
―おー、それはすばらしい!(記者、以下、J)
―でも、よくいわれているようにやはり放射線は怖いです。(M)
―ん?なに?怖いだって??(J)
―えぇ。やはり少し怖いです。行くことに迷いもあります。でも行きますよ。(M)
この言葉を聴いたとたん彼の態度は一変し、ものすごい勢いで怒りをあらわにしました。
―何だって!?ふざけるな!怖いってどういうことだ!(J)
―If you do not record history of your country, who will do? (J)
「私は、私たちの歴史を記録しにいくのだ。自分がやらなきゃ誰がやる!」
確かにマスコミも原発周辺に立ち入るのを渋っているように感じられます。これまでテレビ局や新聞社の記者として現場に入り、そこで彼または彼女が得た情報をほとんど目にしていません。これでは、私たちの記憶に深く刻まれたこの大きな災害を記録することはできません。
――誰がやる? 私がやるしかないだろう。
もう覚悟は決まりました。こうして私は恐怖を乗り越え、現地に向かうことになりました。
【原発まであと30km】
原発に近づくまでの間の道中、いくつかの痛ましい光景も目にしました。
福島と聞くと原発というイメージがつきまといがちですが、津波の被害も極めて大きかったのも事実です。
さらに私は車を進め、いよいよ福島の広野町というところまでやってきました。
私はできれば原発の目の前まで行くつもりでした。カメラを持って原発の今を記録するつもりでした。今だって何百人もの人がその原発のまさにその場所で、なんとか原発の被害を抑えようと仕事をしています。放射線は一瞬であびることよりも、長期的にあび続けることによって被害が大きくなります。それにもかかわらず彼ら、彼女らは事故発生から2か月以上そこで働き続けているのです。たった1日だけいるものが怖がる理由はどこにもありません。
しかし当時、原発から20km圏内は避難指示区域(4月22日から法的に立ち入りが禁止される警戒区域)に指定されており、中に原発関係者、自衛隊など以外はたとえ住民であっても立ち入れませんでした。さらに30km圏内は屋内退避指示となっており、住民など関係者しか入れないことになっていました。
30kmのところまで来ました。するとそこには案の定警察による検問がありました。
―えー、本日のご用件は?
―取材に来ました。
―あの、どこの会社の方ですか?
―フリーです。
―あー、えーっと今この通り立ち入りを制限していてね、やっぱりご自分の健康のためだから、入れるわけにはいかないんだよね。
―どうしても入って記録をとりたいんですが。
―やっぱり体のためだからね、申し訳ないけどあちらから帰ってもらえるかな。
第2話同様、またしても複雑な心境になりました。こんなにも覚悟を決めてきたのにここで終わりか?と何度も食い下がろうとしました。しかしいくらやっても結果は同じ。
――あなたの健康のために入ってはいけません
この言葉が立ちはだかり、結局中には入ることができませんでした。
しかしこれには深い深い問題があるのです。そう。それはあたかも迷宮のように。そこでは灯も当たらず暗く入り組んだ道。そして出口も見えない複雑な状態になっています。
以下ではほんの入り口ですがその迷宮についてをお書きします。そこには私たちがすむ社会の、灯の当らない部分でもあるのです。私たちがどんな社会に住んでいるのでしょうか。もう少し違った視点から見てみませんか?
-おまけ-【迷宮の入口】
気持ちを奮い立たせてきたものの、私の健康を気遣われて入ることができない。ここでみなさんはどのように考えますか? 私のように取材に来た人間は中に入れてもよい、もしくは入れるべきだと思いますか?それともやはり無謀だから禁止しなくてはいけませんか?(もちろんもっと組織的に動けば入れてくれた、ただ単に火事場泥棒を疑われたなどという理由も推測されますが、上の二つのことを比べて考えたいので他のことは無視します。それに現実には上のように言われたわけです。)
少し難しく考えると、健康に悪いことは禁止されなければならないのでしょうか?自分の健康にとって悪いことは、自分では決定できないのでしょうか?
これはとても難しいテーマなのです。しかし実をいうとこれは今日の現代社会にあるひとつの大きな問題でもあるのです。理性的に行動するとはどういうことか。健康に悪いことはしないことが理性的なのでしょうか?それとも「人類のため」と使命感に燃え、危険も顧みないことが理性的なことでしょうか。
考え始めるとそこには深くて先の見えない迷宮―ラビリンスワールド―が広がっています。このテーマはそんな迷宮の入口です。さぁ、迷宮の扉を開けてみませんか?
つづく
* リビア
アフリカの国。エジプトやチュニジアと接している。現在、接する両国のようにソーシャル・メディアを用いて指導者カダフィ氏と反体制派の間で衝突が起きている。
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